そしてその条件が満たされているのが本作。シリーズ中最もヒューマンさが際立っていて、狂四郎の人間臭さと虚無感がバランスよく描かれています。加藤嘉、高田美和ら共演者たちも魅力的。
本シリーズは1作ごとに趣きが違っていて、その違いを見比べるのも楽しみの一つ。死語満載で通好みの「無頼剣」ももちろんいいですけど、飄々とした中で時折ピリッとくるのもいいものです。
次作「女妖剣」で決定的になる狂四郎VS悪女のパターンが初登場する作品、
雷蔵を除く出演者が愛人と敵役に中堅数名、ほかは大映の大部屋俳優ばかりであり、シリーズ他作品が一種のオールスターキャストであることに比較すれば異色作といえる、
俳優人の地味さを除けば作品の仕上がりは素晴らしいものであり、演出・脚本・美術・衣装・メイク・音楽、作品の隅々まで行き渡った配慮は昨今の邦画であれば創業何年記念特別製作のような作品でもはるかに及ばない水準であり、1960年代には毎月のようにこの水準で映画が作られていたのかと思えばそのあまりの実力にため息がでるばかり、
本作の狂四郎は第2作「勝負」のキャラクターの延長にある悪辣な武士階級を懲らしめ弱者を助ける正義の見方であるが、好色な机竜之介といった印象の虚無感が色濃くなっており、「俺の顔に照り映える月の明かりが、おぬし、この世の見納めだぞ!」に代表されるきざな台詞が板についてゆくことになる、
作品のそこかしこにあらわれる江戸情緒、そば屋、夜鷹(特に「吉原三年、岡場所ニ年、ござを抱えて夜鷹が五年」の戯れ言に注目されたし)、百姓町人の着物の粗末さ、江戸の町並みと一種の難民スラムである河原の対比、幼女の遊戯など、は本当に江戸はかくあったのかもと思わせる、俳優の出演料が安く済んだためかどうか、クライマックスの実物大の橋の炎上シーンは大映特撮ならでは大迫力であり、後の「大魔神」や黒澤映画と伍している、
前3作で確立した雷蔵・狂四郎のキャラクターと舞台設定が本作では一気に狂四郎出生の秘密開示にまでおよぶ、己の出生事情を知った本作以降、巨大な虚無感を背負った狂四郎は子供を除く一切の悪人を容赦無く切り捨てるキャラクターとなる、
81分の短い映画だが、活劇(チャンバラ)と狂四郎を誘惑する当時のグラマー女優(久保菜穂子、春川ますみ、根岸明美ほか、藤村志保さえここではエロ担当)が繰り返し登場し一種のローラーコースター・ムービーに仕上がったことがヒットの最大要因、池広一夫監督の起用が森一生や三隅研次のような端正な作風の監督ではとうてい無理なアクション映画として大成功した、
撮影時、32歳の雷蔵は発病前の最も体力充実期とおもわれ、威風堂々としてなおかつ上品この上ない佇まいは唯一無二、正に不世出の映画俳優である、逆にシリーズ後半の発病後は本作と比べれば実に痛々しいともおもう、
当時のプログラム・ピクチャーとしては精一杯の久保や春川の脱ぎっぷりは現在のように露出が当たり前の時代だからこそ逆に不思議に隠微な情緒が醸し出されており貴重である、シリーズ二度目の出演となる城健三郎(後の若山富三郎)演じる少林寺憲法の使い手との対決が決着しないまま城の三度目の登場はないのはシリーズ全体とすれば少々残念なところ、
前作までの4作品で確定したシリーズの舞台設定が本作からの3作、炎情剣・魔性剣・多情剣で三隅・安田・井上という大映全盛期を支えた名監督達によってそれぞれが見事な収穫をあげたといってよく、雷蔵・狂四郎シリーズの中核ともいえる作品群に仕上がっているとおもう、雷蔵が口を開く度に発せられる気障なせりふが一片の嫌味も感じさせずばしばしと様になっており雷蔵自身の役を完全にものにしたという自信も感じる、
前作「女妖剣」で明かとなった狂四郎の出生事情、父親がオランダ人の破戒僧侶だったことを引き継ぎ本作では隠れキリシタン事件に狂四郎が絡む、加えて海賊と財宝、私腹を肥やす悪巧みに励む悪家老阿部徹と悪徳商人西村晃、そして悪女として中村玉緒が大活躍、シーンが変わるたびに着物が必ず変わる中村の色香も楽しい(個人的には”朝顔柄”の帯にとても興味がわく)、赤襦袢一枚に麻縄で緊縛された中村が駕籠から投げ出されるサービス・シーンもある、
三隅研次演出による江戸情緒たっぷりの娯楽時代劇であり、狂四郎を篭絡するために行燈の前で差し向かいになるシーンで中村がセリフをしゃべりながら懐から懐紙を取り出し使うのだが、懐紙を使うしぐさなど現在の若い女優では無理なのではないだろうか、
いつもながら斉藤一郎が良いスコアを提供している、ラストの剣劇シーンで使われたお寺は大林映画でも使われた場所と同じであろう、
このデータは、06年02月12日1時12分21秒現在のデータであり、現時点では変更されている可能性があります。