もし手塚治虫の思想とか哲学という言い方が可能だとすれば、私はこの「ブッダ」においてそれが一番見事に表現されていると思います。読者はここから、「火の鳥」や「ジャングル大帝」「ビッグX]その他、お気に入りの他の作品を連想されることでしょう。そのストーリーや手法、愛らしいキャラクターなど多くの意味で、「ブッダ」は手塚まんがの集大成と呼ぶにふさわしい傑作だと思います。大変長い作品ですが、活字人間の方たちをも充分満足させる充実した内容です。 童心に返って手塚治虫の世界にじっくり浸ってみるなどという贅沢は、私たち日本人にだけ与えられた特権です。大いに満喫しましょう!
この漫画に通じるひとつの考えに生きるとは何か?ということがある。
生と死を考えるためのこれから始まる漫画の導入部分である。
この巻では、仏陀は幼い頃に、すでに、夢の中で、生まれてから死ぬまでを夢に見た。
単純にそんな子供は早熟である。怖い。
私がインドへひとり旅をしに行った時、法律的には廃止されているとはいえ、カースト制度の厳しい身分差別が今でも色濃く残っていることをヒシヒシと感じました。
「なぜ、人間は人間が決めたもので苦しまなければいけないのか…」
本書を読んでいる時に、ガンジス河の辺でそんなことを考えたなとふと思い出しました。
ソレデハ…
旅先で、目を自分で焼いたバラモンのデーパや、今や盗賊の頭領となったタッタに会います。
彼らとの出会いがガウダマ=シッダルタにいかなる影響を及ぼすのか…
また、本書ではガウダマ=シッダルタに何かと絡んできたバンダカ、そしてその息子のダイバダッタについて、詳細に描かれています。
ダイバダッタとガウダマ=シッダルタの人生が絡み合うのは先になりそうですが、何かを予感させるものがあります。
いよいよガウダマ=シッダルタの旅が始まりました。
彼と一緒に悠久の旅に出ましょう。
この“未来が見える力”には誰もが1度は憧れたことがあるのではないでしょうか?
正直、私も“未来が見える力”を手に入れたいと思う時があります。
しかし、自分の死や将来自分がどういう人間になるのか、さらには世の中がどうなるのかといったことを知っている状態で、果たして精力的に生きることができるのでしょうか?
つらいことも含めて、人生を楽しむことができるのでしょうか?
こういうことを考えると、“未来が見える力”は必要ないというより、手にしてはいけないとさえ思えてきます。
本巻の悟りの瞬間の絵がすばらしい。
タッタはマガダ国、ヤタラはコーサラ国とそれぞれ国を背負って…
2人は心が通じ合ったにもかかわらず戦わなければなりませんでした。
こういったことは、世界中で争いが絶えない現在、結構存在するのではないでしょうか?
しかし、こんなにつらいことはなかなかないはずです。
こういったことのない素敵な世界を作りたいものです。
私はインドへひとり旅をしに行った時に、ガンジス河の辺にあるバラナシで、とある5−6歳の子どもの集団に出会いました。
彼らは、自分の体と同じくらいのジュート袋を4−5人で力を合わせて運ぶ作業をしていました。
大変そうだったので、私が手を貸してみてビックリ!!
なんと、彼らはみんなで楽しみながら、大変な作業をしていたのです。
その後、彼らと仲良くなった私は、彼らが仕事のない時に、一緒に遊ぶようになりました。
凧揚げを教えてもらったり、鬼ごっこをしたり…
貧しくて、学校へ行けず、働かなければいけないと考えると、「大変」「かわいそう」という言葉が頭に浮かびます。
しかし、彼らは彼らなりに人生を楽しんでいるように感じました。
さらには、日本人より経済的には貧しくても、心は日本人より豊かな感じさえしました。
ブッダ説いたように、彼らの方が“勝ち”なのかもしれません…
ところで、最近あまり使われませんが、「清貧に甘んじる」という私の好きな言葉があります。
俗世間にへつらわないで、貧乏をしても節操を守るという意味です。
お金のためなら、手段を選ばず、悪いことでも平気でする人が多い現代において、「清貧に甘んじる」という言葉は、スダッタのように正しく生きることに勇気を与えてくれます。
この言葉は、絶対死語にしてはいけないと思います。
このデータは、06年02月12日0時52分38秒現在のデータであり、現時点では変更されている可能性があります。